makicoo thinks

世の中に対して思うことはここに。

好きや嫌い、生き方に理屈はいらない

f:id:makicoo:20170622215628j:plain

ライトノベルの表紙からはじまり、NHKでのキズナアイ、そして数日前からは児童書の萌え絵問題。ものすごく雑に言うと何がエロい/エロくないの話が連日続いている。私個人としては規制されてもされなくてもどっちでもいい、くらい温度感が低いのだけど、議論の内容については興味があって。で、色々な論点を読んで思ったことのひとつが「個人の好き嫌い、ありかなしかは関係ない」という意見に対してで、それは本当に?ということ。

音楽や絵画の歴史を紐とけば、新しい手法が取り入れられる時はいつも議論が沸き起こる。私が思い出したのはジャズやロックが不道徳であったりベートーヴェンの曲がエロい認定されたり、極端な例でいうとミレーの「落穂拾い」が不道徳とされた時代のことだ。
過去を振り返ると結局何がありで何がなしかは、その時代の「あり」と思う人と「なし」と思う人のパワーバランスで決まっていく。2018年の今からみればどれも「不道徳でもなければエロくもない」なのだけど、当時は発禁にすべきなんて話が出ていたほど。それが何故、今ではエロくない不道徳でもない、とされたかというと、エロいエロくないはさておき「いい」と支持する人が多かったからだ。

ラノベの表紙にしろキズナアイにしろ児童書の萌え絵にしろ「あり」か「なし」かを決めるのは数の論理であると私は思っていて、だから「自分はありだと思う/なしだと思う」がこの問題においてまずはいちばん重要だと思った次第。


私の中では話題になったラノベの表紙はエロいはエロいが子どもがみて傷つくようなもんじゃない(おっぱい大きい女の人がセクシーって幼稚園児くらいからもってる概念だと思う)、キズナアイはあざといはあざといけど、NHKで使うなというほどあざといとは思わない、萌え絵表紙の児童書にいたっては、私の親の世代が「まんが日本の歴史」が気にくわなかったのと近いのでは、という感想を持った。が、それらのすべてに嫌悪感や違和感を抱く人の言い分も分かったので、まあ私はどっちでもいいやあというのが今思っていること。

そんな私が「あり」とこれからも主張していきたいのが、経済的に貧窮していようがいまいが子どもを持つ女性が働く自由と、時には「母」が子の世話を他人に任せて趣味やプライベートに勤しむ自由。実はこれ、私は長らくずっと「そうしてはいけない」と思い込んでいた節があって、まだ時々その呪縛に苦しめられる。

で、そんな時、ついつい「理屈」を探してしまいがちになる。たとえば子が母親と離れていても子の発育には影響がないデータだったり、長時間預けられて育ちながらもすくすく育った子の話などだ。
ただそれすらも、よく考えると、どう人生を生きたいかの私の好き嫌い。そして世の中的に「あり」であっても「なし」であっても、私はこの生き方を変えないという今は強い覚悟。

結局のところ、好きや嫌い、そして生き方に理屈はいらない。そう思う。