makicoo thinks

世の中に対して思うことはここに。

生きる意味について考えるのマキ。

うちの家系はとにかく長生きで、60代で亡くなったのが1人、70代が1人。その他は見事にみな80overまで生き、ガンで亡くなったのも69でなくなったおじ1人のみ。後は肺炎や老衰チックな感じで一生を閉じている。そんなうちの家系を象徴するのが、現在点滴のみで生きている父方の97歳の祖母。2週間持てばいい方と言われ、実家から電話がかかってくるたびに亡くなったという連絡かと思いきや、単なる私の安否確認やしょうもない用事で拍子抜けという日々から早2ヶ月半。そして今日は先に実家で暮らす妹がずっと飼っていた犬が亡くなったという連絡を受け、超複雑な気分。

 

そもそもうちは家族全員が延命治療絶対拒否派で、祖母のような状態になったら点滴はしないと、言っていたのだけれど、いざ祖母の点滴をはずすかどうかを医師から聞かれた際に両親が出した結論は「点滴を続ける」だった。その心境の変化は、離れて暮らして久しい私にはよく分からないけれど、たとえ寝たきりであっても「生きている」というのはやはり身近にいる人にとって尊重したいことなんだとしみぢみ思う。

 

「生きる」とはなんなのかを考える時にいつも思い出すのはこの本。

生の短さについて 他二篇 (ワイド版岩波文庫)

生の短さについて 他二篇 (ワイド版岩波文庫)

 

 この本の中でギリシャの哲学者「セネカ」はとても手厳しいことを言っている。

我々は短い時間を持っているのではなく、実は多くを浪費しているのである。人生は十分に長く、その全体が有効に費やされるならば、もっとも偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている。けれども放蕩や怠惰に浪費してしまったり、どんな善いことのためにも使われないならば結局最後になって否応なしに気づかされることは、今まで消え去っているとは思わなかった人生がもはやすでに過ぎ去っていることである。

 

セネカはこの本の中で「人生」と「単なる時間」を区別している。彼にとっての「人生」とは

愛すること、徳を実践すること、激情を忘れること、いかに生き、いかに死ぬかをしること、そして深い安らぎの境地に達することです。

 

と言っている。

 

寝たきりで、食事すらとれない祖母に生きている意味はあるのか、ということを突き詰めて考えていくと、じゃあ生きるってなんだろうというとてもシンプルな質問に行き着く。今日は仕事の間に友達とランチをし、ジムに行った後にリンパマッサージにも行き、夕飯も作り、私にしては比較的充実した1日だった訳だけど、果たしてそれが「生きる」なのかと聞かれると一瞬言葉に詰まる。仕事をしていなかったら生きる意味はないのか。ジムに行けない体になったら生きる意味はないのか。食事も作れない状態になったら生きる意味はないのか。答えは「NO」のように思うけど、だとすると「生きる」とは本当になんなのだろう?

 

これは紀元前から多くの人が繰り返し考えてきたことで、セネカのように自分の中で結論を見出した人もいるし、答えがないまま死んでいった人もいる。

 

1つだけ強い思いがあるのだとすると、少なくとも「人生という与えられた時間を楽しむ」というのは私にとって重要なテーマで、今日のようにやりたい事が消化でき、つらつらと文章を書いている今の状態というのは幸せそのものだということ。セネカがいう「愛すること、徳を実践すること、激情を忘れること、いかに生き、いかに死ぬかをしること、そして深い安らぎの境地に達することです。」とはちょっとずれてるかも知れないけど、明日死んでも後悔はないなという心境でこれからゆるゆる寝て締めくくる1日というのは、よくよく考えると私にとっては十分満足の行くもののようだ。

 

先に疑問に思った『今日は仕事の間に友達とランチをし、ジムに行った後にリンパマッサージにも行き、夕飯も作り、私にしては比較的充実した1日だった訳だけど、果たしてそれが「生きる」なのか』を改めて考えるとそれは「YES」。そして別に寝たきりになったところで、その時はその時の楽しみがあるのかもしれない。祖母の心境は祖母にしか分からないが、彼女も寝たきりではありながらも、何か生きることに楽しみを見出せているとよいなと思う。

 

明日も、そしてこれからもこんな感じで生きられるとよい(*゚ー゚)