makicoo thinks

世の中に対して思うことはここに。

差別・区別(配慮)/の違いは何なのかのマキ。

ここ数日に立て続けに立場の違いによって意見が相違する記事を読んで、いったいどこが差別•区別の境界線なのかなということを考えた。

 

・小さい子供はお断りというスタンスの是非

www.goodbyebluethursday.com

・刺青はお断りというスタンスの是非

痛いニュース(ノ∀`) : 東京サマーランド「刺青タトゥーは入園禁止」「刺青入れる自由があるようにお断りする自由もある」 → 炎上し謝罪削除 - ライブドアブログ

 

・ゲイからの告白は迷惑だというスタンスの是非

ゲイはノンケに告白すべきではない - 高学歴フリーターのブログ

 

・子供が目にする場でプリキュアのコスプレをやめろというスタンスの是非

prehyou2015.hatenablog.com

 

世の中はこの手の「差別・区別(配慮)」の立場の違いから生じる意見の相違が尽きない。飲食店の外国人お断り・障がい者お断りという事例が出るたびに、差別なのか(ほかの客への)区別(配慮)なのかという議論が沸きおこる。満員電車でのベビーカーを許容するしないというのも意見が分かれるところだ。

 

私が「差別・区別(配慮)」の違いでいつも思い出すのは、アメリカや南アフリカで行われていたアパルトヘイト(人種隔離政策)のことだ。つい数年前にも、とある黒人のカップルが結婚式をあげようとしたところ、教会から断られたというニュースがあった。

blogos.com

これをただの「人種差別」と言うのはたやすいけど、教会側にも断る権利があると、見方によっては言えるのかもしれない。LGBTのカップルだとなおさらだ。聖書では同性愛は罪だと記載してある箇所があるし、教会の理念に反していると言ってしまえばそれで断る理由に値する。実際、黒人に対して嫌悪感を持つ人、LGBTに対して嫌悪感を持つ人はいる。その人たちの権利はどうやって守るべきか、という問いは、「刺青をみて不愉快に思う人たちがいる」「子供の泣き声で不愉快に思う人たちがいる」「大人のプリキュアコスプレをみて不愉快に思う人たちがいる」と程度の差こそあれ、根本的な発想の出所は一緒である。

 

じゃあ何故「黒人お断り」が差別とされ、「LGBTお断り」が差別と認識されつつあるのかと言うと、それは「区別」されている側が、それは不当だと声をあげ、それに対する世論が「確かに不当である」と認識していったことにある。教会がLGBTの挙式を認めつつある流れになっているのは、LGBTの団体が権利を認めて欲しいと強く主張し、またそれに対する世論が「確かに別にいいよね」と同調していったのが大きい。

 

つまり、何が「差別か」「区別か」というのは、時代や環境によって違う。差別・区別の境目は絶対的なものではなく、正しい間違っているというのも、単純にジャッジできる問題ではない。そしてそれが差別なのか区別なのかという境目は、「声の大きさ」による部分が大きいのが現状だ。サウジアラビアでは女性は選挙権がないどころか、車の運転もできない。ただそれを第三者が「女性差別だ」と言いづらいのは、サウジアラビアにとってはそれが文化であって、それは日本における女性が甲子園のマウンドに立てない、土俵に立てない、歌舞伎役者なれないのと、本質的には近しいものがあるからだ。

 

それでも、差別・区別の境目を本当に数の論理だけでひいてしまってよいのかというのが、今回私が言いたいこと。満員電車のベビーカー問題にしても、大半の乗客はベビーカーを持っていないので、持ち込む方がマイノリティ。カフェに子連れでいくのもマイノリティ。LGBTもマイノリティだし、刺青が入っている人もマイノリティだ。「大多数の利益」だけを優先するのであれば、マイノリティにはただ我慢さえしてもらえればよい。何故なら少数派である。大多数の人が迷惑をこうむらないのであれば、それが一番だという意見もあるのだろう。

 

それでも、「大多数の利益」だけで世の中が動いて欲しくないなと思うのは、「許容すること」「認めること」が、今の人間社会のいいところだと思うからだ。人間というだけで尊重される世の中になったのはつい最近のことだ。ちょっと前の歴史を紐解けば、そこは今の価値観でいう差別のオンパレード。マイノリティを認められるようになったのは人間の進化で、それは誰だって時にはマイノリティになる可能性がある以上、世の中はとても住みやすくなったと思うのだ。

 

「マイノリティを尊重する」ということは、マジョリティ側に、若干の居心地の悪さと不自由さを強いる。満員電車のベビーカーはいわずもがな、行き着けのレストランが突然子連れを認めはじめたら、静かな雰囲気を気に入っていた人にとっては不利益なことだろう。

 

ただその若干の不自由さを皆が許容できるようになると、世の中はもっと住みやすく、更に快適になるんじゃないかと思っている。