makicoo thinks

世の中に対して思うことはここに。

イスラム国について考えるのマキ

ここ半年くらいいわゆるイスラム国に興味があり、主にyoutubeで関連する動画をみた。繁華街で女性が拉致される動画や家が襲撃され一家皆殺しされる動画、さらし首にが並べられたものや、例の欧米ジャーナリストが首を切り取られる動画のダイジェストもみた。

そんな中一番衝撃的だったのがイスラム国が迫害しているヤズィーディー教を信仰しているクルド人が荒野を大移動している動画で、彼らが移動せざるを得ない理由としては彼らが住んでいる土地がイスラム国に占領され、その地に留まったままだと女性はレイプ、男性は皆殺しされるからだった。紛争が起こった際の「女性はレイプ、男性は皆殺し」。紛争が起きた地帯では決して珍しくないものの、被害にあった人たちが涙ながらに訴える映像にはぐっとくるものがあった。

私がこの手の問題に関心がある理由のひとつに、私の実家が4代続くキリスト教の家系という事実がある。明治時代、日本にキリスト教の一派であるプロテスタントが日本に入ってきた際に最初に洗礼を受けたうちの1人が私の先祖で、それこそ第二次世界大戦中も信仰を捨てず、何とか生き延びたそうだ。小さい頃、母親からその事実を聞いた時もそうであるし、また歴史の授業で日本におけるキリシタン迫害の歴史を学んだ時も、なんともいえない不安と恐れを感じたことを今でも覚えている。「お前はキリスト教徒か」ときつく尋問された際に自分はどう答えるのだろうということを、今回のような痛ましい紛争を見聞きした際にも自問自答してしまう。そして「異教徒だから」という理由で撲殺されたりひどい扱いを受ける人たちを見聞きするたびに、自分も一歩時代が違えばそのような恐怖に怯えて生きる可能性もあったということに戦慄する。

一方でアラブの歴史は複雑である。ユダヤ教キリスト教イスラム教聖典のひとつである旧約聖書には、紀元前から続く争いの歴史が克明に書かれている。少なくとも2,000年以上前から今のシリア、イスラエルイラクにかかる地には争いが絶えず、ある民族部族が権力を握れば他の民族部族が迫害され、そして迫害されている側は宗教を心の拠り所にしながらひどい仕打ちに耐え、機会を見計らっては蜂起し、自分たちを虐げていたものを倒す。そして残念ながら自分たちがされたように、自分たちを虐げる可能性があるものを迫害する。他民族をなぜ迫害するのか。それは自分の身を守るためである。他民族の隆盛は自分たちの危険に繋がる。殺らなければ殺られるのだ。そして憎しみと戦いの連鎖は今に至るまでとぎれることはない。

私の価値観からするとイスラム国は残虐極まりない集団である。彼らが今行っていることは安穏に暮らしていた人々の生活を恐怖に陥れ、ヤズィーディーの人たちを惨殺し、また己の主張をよりバイラルさせるためにセンセーショナルな惨殺映像をyoutubeにバラまいている。ただ一方で彼らはそれまで虐げられた人たちを尊ぶ側面もあり、そのため支持する人々が存在し、また規模も拡大している。

日本人が彼らに捉えられ、彼らの解放を条件に無茶難題を要求され、そして見せしめのために殺された。安倍さんがイスラム諸国に往訪しなければ、彼らを刺激するようなメッセージを出さなければという意見を見聞きするたびに、「知らぬが仏」ということわざが頭に浮かぶ。日本から遠い国の事である。2,000年も前から続いている争いの延長である。何も首を突っ込み争いの当事者になる必要はないという意見も頷ける一面があるのは当然だ。

それでも気にせずにいられないのは彼らの日常が私たちの非日常だからだろう。砲弾に怯えたこともレイプに怯えたこともない。とある勢力が力を握ったことで、生活が圧迫されることもない。そしてそんな日常が彼らにも訪れたらどんなによいだろうと心から思う。

そのために私たちは何ができるか?

少なくとも目を背けてみなかったことにすることではないはずだ。今シリア、イラクで何が起こっているか、いったい何が原因で争いが絶えないのかを知ること。またたとえどんな悲しい歴史の積み重ねの結果にしろ、一方的に人を殺したり人質をとって脅迫したり、特定の民族を虐げたりすることが人道的に許されないということを、きちんと伝えられていけたらよい。争いの当事者ではないからできることを模索していければよいなと思う。