makicoo thinks

世の中に対して思うことはここに。

糸井重里「インターネット的」第1章感想/2017年に「インターネット的」を実現するには

2001年に書かれた本であるにも関わらず、「今」をとても的確に表していると話題の本、糸井重里「インターネット的」を読んだ。

 

丁寧に読むつもりなので、今日は第1章の感想と思ったこと。

インターネット的 (PHP文庫)

インターネット的 (PHP文庫)

 

 

さすが糸井重里さんと思ったのが、彼が「インターネット的」を象徴するとした3つの言葉。

リンク

 一見、不要な情報からのつながりに可能性を見出せるということが「リンク」という考え方にはあるのです。これは、インターネットのとても得意なことではあります。象について調べているうちに、数学に関心を持って、パリの大学につながって、現地でファッションの勉強をしている女性と恋におちました…なんていう、「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいな、はじめっからは想像もできない連鎖がほんとうにできるのが「リンク」というものもののおもしろいところです。

糸井重里「インターネット的」第1章22P

 

シェア

もうひとつの大切な鍵は「シェア」です。翻訳するなら、"おすそわけ"といったニュアンスでしょう。
(中略)
分け合うということは、"なぜかは知らねど、楽しい"、と。その「シェア」というよろこびの感覚が、インターネット的なのです。

糸井重里「インターネット的」第1章25P-26P

フラット

フラットというのは、それぞれが無名性で情報をやりとりするということと考えられます。情報のやりとり自体に意味があるので、そこでは、それぞれのポジション、年齢、性別、価値などの意味が失われているわけです。
(中略)

どういう立場の人かによって、対応を変える必要もないし、自分の立場が弱かったり小さかったりしても、そのことで自分は何を発信できるのかについては、ひるむ必要もありません。
糸井重里「インターネット的」第1章31P-32P

 

ああ確かに、ということですんなり頭に入ってきた。

 

一方で今この「リンク」「シェア」「フラット」というのは少々曲がり角にきているような思いがある。

2017年の「リンク」

「Instagram」や「Twitter」でのタグ検索、「Newspicks」や「はてブ」でのレビュワーを通して記事を知るといったインターネットらしい「リンク」は一部では健在だけれど、「サイト」という単位ではより専門店化してきているため、象について調べているうちに、数学に関心を持って、パリの大学につながって・・・というのは以前に比べておこりにくくなっている。

2017年の「シェア」

この本が出た2001年当時と今の決定的な違いは「アフィリエイト」「ステマ」を代表とする商業的なシェアが現在には氾濫していることだろう。特にInstagramは最近ステマのオンパレードである。

2017年の「フラット」

ここが2001年当時と一番違うことだろう。実名や所属を明らかにする人が増え、「何を言ったか」ではなく「誰が言ったか」がより力を持つ時代になっている。Twitterやはてな上では、たまにそれまで無名の人が急に脚光を浴びることはあるものの、インフルエンサーが目にとめて、シェアしたというのがバズの発祥であることがほとんどだ。

 

これが何故そうなったのかということも考えてみる。

純粋な「リンク」が困難になってきた理由

モノが溢れ人のニーズが多様化したことにより、デパートが廃れ専門店が流行るのと近しい。当時のインターネットは、インターネットに能動的に接続している一部の人のためのものであって、欲しい情報の粒度にそこまでばらつきがなかった。ただ今は違う。そのため糸井重里の本の言葉でいう「ジョイント的」なものが、以前よりインターネット上でも好まれるようになってきた。

 

純粋な「シェア」が困難になってきた理由

インターネット利用者の人数の増加に伴い、「シェア」がビジネスになり、そのため純粋なシェアとそうでないシェアが入り混じることになった。

純粋な「フラット」が困難になってきた理由

インターネット上で発言に対しての心理的障壁、物理的障壁が下がり、流通する情報量が爆発的に増えた。そのため「信用できる人」を選別することが以前より重要になった。

 

そして2001年当時に予言されていた「リンク」「シェア」「フラット」が曲がり角になった時代だからこそ、この3つを意識したサービスというのは、昔より魅力的になりえると思った。

 

今「コルクラボ」がすごくインターネット的だと感じるのは、各人のバックグラウンドが違うからまさに思いがけない「リンク」が掲示され、真剣にコミュニティを考えるために集った面々だから「シェア」される情報がとても有意義で、更に人数が限られてるが故に、各々の発言もオープンな場と比較して「フラット」に取り扱われていることか。

 

佐渡島さんが第一回目で言っていたようにそんなコミュニティというのはきっと流行るんだろう。そういう意味でもそれを体験できるコルクラボに入れてよかったなと心から思う。

 

それが私の第1章を読んだ感想だ。

 

##以下蛇足###

私が糸井重里のいう「インターネット的」が忠実に実現されていて最高に面白かったと感じるのは2002年あたりの2chだ。

2chにおける「リンク」

2chでは「板」と呼ばれる掲示板の単位が細分化されていて、ユーザは普段自分の興味に合った板をみている。ところがたまに板を飛び越えるような「祭り」が発生し、コラボが発生する。私が明確に覚えているのは「ムネオハウス」という2002年のムーブメント。ニュース速報板で、鈴木宗男の証人喚問が面白いと話題になっていたのだけど、そのサンプリングの音声を面白がったテクノ板住人が音楽にして、それをもとにFlash板住人がFlashにして、というのが自然発生的におこった。最終的にはDTP板の住人がアルバムジャケットをデザインし、ロフトプラスワンで「ムネオハウスパーティ」が開かれた。

timesteps.net

 

2chにおける「シェア」

当時は「Flash」全盛の時代で、Flash板では数多くのFlash動画が作られていた。その中には作者によるステマが一部されてはいたのだけれど、投稿される作品が少なく、観る側が圧倒的に多かったのもあり、面白いと多数が評価したものだけが純粋にバズった。

www.youtube.com

www.youtube.com

 

2chにおける「フラット」

2chでは「ひろゆき」や「切込隊長」、「削除人忍」、「夜勤」など、2ch運営側、一部のコテハンと呼ばれる2ch内有名人がいたものの、彼らと名無しユーザの関係性はフラット。「ひろゆき」の発言が時にはスルーされたりするほど。「何を言ったか」がより評価されていた。

 

本当に2chの初期にどっぷりはまることができてよかった。この先の未来に、また当時の2ch的なものが出現することを願ってやまない。