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草間彌生「わが永遠の魂」/苦手なものとの付き合い方

今日は新国立美術館で行われている草間彌生展へ行ってきた。

kusama2017.jp

正直に言うと、現代アート全般があまり好きではない。私は画家が自分が見知った世界をどう捉えるか、という観点で絵をみるのが好きなのだけれど、現代アートは概して「見知った世界にないもの」を何とか捻り出そうとしているようにみえてしまう。青いものを赤で塗る。丸いものを四角と表現する。そこに私が感じるのはこういう風にもみえる、という物の見方の提案ではなくて、こんな物の見方したことなかったでしょという、作り手からのマウンティング。
そしてそれは私にとって「芸術」ではなく単なる「こじらせ」で、だからみると不快になることの方が多かった。

 

そんな中、世界的な現代アートの第一人者、草間彌生をみにいこうと思ったのは、相方氏が興味を示したからというだけの単純な理由。正直同時開催しているミュシャ展の方が興味はある。が、そんな機会でもなければみないし、と今日は草間彌生をみることにした。

 

この展覧会は、ひとたび会場に足を踏み入れると、まず圧倒的な色彩が目の前に広がる。

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壁に隙間なく並ぶ絵たちはまさに色の洪水状態。

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いつものように、絵をみて、それが何であるかを想像してから絵の題名をみようとしたけれど、あまりの数の多さとインパクトの強さに、すぐにやめてしまった。そこから1枚みて、2枚みて、なんとか楽しもうとはするものの、それもすぐに途方にくれてしまった。理解したいとは思う。だけど全然好きじゃない。結局部屋の半分はみることを諦めて、次の展示室に行くことにした。

 

次の展示室には「静寂」があった。

10代の頃の草間彌生が描いた絵は、色彩が乏しく、まるで別人。そしてピカソの初期のような精巧さがほんのりあった。ただ、前の部屋の展示のインパクトにまだ脳が不快感を持っていて、素直に「好き」とは言いたくない。第一私は色彩の乏しい絵が好きな訳じゃないし。

 

次の展示室には「空白」があった。

 

アメリカに渡ってから彼女がまず好んで描いたのは「白」で、額縁の中に「白」しか描かれていない作品がとても印象に残った。そういうアイディア一発勝負みたいな作品は正直どこか見下している節がある。だけど彼女が「白」を表現するために配合した灰色の加減が絶妙で、しばし目を奪われた。

このあたりから、草間彌生という人に興味を持てるようになった。統合失調症を若くから煩い、自殺未遂を何度と繰り返しながら、描いて描いてかきまくった人。
放映されていた、自身が映る映像から透けてみえる草間彌生はとにかくまっすぐに前をみる人で、たとえば布を延々と道に敷き続けるといったようなパフォーマンスですら、迷いがなく、そして前をみながら盲目的に、その動作を繰り返していた。

 

次の展示室からは白い「男根」を彷彿とさせる突起物が椅子やオブジェを覆うような作品、彼女自身が好んでモチーフにした「かぼちゃ」のオブジェ、そして彼女の代名詞でもある「水玉」の作品が次々と展示されていき、徐々に私が最後までみることができなかった「色彩の洪水」の片鱗がむくむくとあらわれた。


あーやっぱりここから先はなーとは思う。ただ最初に感じたような「嫌悪」というのはすっかり消えていて、1人の芸術家の愛した世界、といくぶん冷静にみれるようになってきた。

 

その後いくつかの展示をみた後、また最初の部屋に戻ることになった。

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最初と比べると全然嫌じゃなかった。現代アートに対する偏見はまだまだ消えないけれど草間彌生のことはずいぶんと好きになった。

 

世の中には数多くの苦手なものが存在する。それが時には人だったりもして、多大なストレスの素だったりする。そんなものは遠ざけてしまえばいいというのもひとつある。

ただ苦手なものこそ、時折こうやって感じて、触れることで、「苦手」が「興味深い」に変わる可能性を秘めている。それは「好き」とは違う複雑な感情。ただ「苦手」より「興味深い」の方が全然いい。