makicoo thinks

世の中に対して思うことはここに。

居場所に合わせて生きる人と居場所を探して生きる人

 

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最近彼が写真にはまり、はてさてカメラ教室に通うようになった。


彼のカメラ教室の先生は話を聞く限り感性の人。写真が上手くなるには自分の欲求を知ることが大事、というのが信条らしく、ガチ理系の彼からすると、かなり斬新な発想。

 

先日その先生が、たとえば富士山を遠景に桜を撮るような、そんな作為的な写真が好きじゃないという話をしたそうだ。皆が好きであろうものを組み合わせて共感を呼ぶ、というのはその先生からすると「あざとい」であり、私はああわかるなあと思う。
男性受けしやすい服に化粧でキメてくる女子が昔から苦手だし、売れっ子俳優×恋愛群像な「ヒット目指します!」がにじみ出てる映像作品も好きじゃない。だから彼のカメラの先生のように、「撮りたいものしか撮らない」というスタンスはすごく素敵だなあと思うし、私もできればそんな「芯」みたいなものを身に着けたい。

 

ただ彼としては、富士山と桜を好む人がいる以上、それはそれでいいんじゃないかと思ったのだという。他人が美しく思うだろうものを意図して撮るのも意味があると彼は思っていて、だから「自分の好きなものを撮る」からブレるのを嫌がる先生のスタンスが、少し腑に落ちないようだった。

 

その話を聞きながら、私は前々職でひと揉めした部下のことを思い出した。揉めた原因は「スーツ」。それまでドレスコードが自由な職場だったが色々な経緯があり、これからはスーツを着るようにというお達しを出した。その部下はそれを人権侵害だと激しく抵抗。結局一度もスーツを着ることなく、すったんもんだの挙句、退職することを選んだ。元部下はその後転職先でも紆余曲折があったらしいけど(まあスーツ以外にも色々こだわりがある輩だった)しばらくしてから起業して、今はそれなりに羽振りよくやっていると風の噂で聞いた。

 

私は人には2タイプいるのだと思う。居場所に合わせて生きる人と、居場所を探して生きる人。それはどっちがいいとかではなく、男か女か、のような性別の違いのようなものだと思う。
私が前々職であった部下は明らかに後者で、そしてそれに一切妥協せずに生きた結果、彼にあった居場所に辿り着いた。私の彼が通うカメラ教室の先生も恐らく後者。富士山と桜の写真が欲しいんだけれどと言われたところで気に食わなかったら引き受けないだろうし、そもそも指定されたものを撮るのがカメラマンだと諭されようものなら、カメラマンという職すらあっさり捨てるのだろう。

 

一方私の彼は、というと、居場所に合わせて生きている。その場所でいかにバリューを出すか、についてセンスがあり、工夫していく過程を楽しめる。富士山と桜の写真がみたいと言われたら、どういう風に撮るか、どこから撮るかを楽しんで考える。だから彼は彼なりのアプローチで写真を撮ればいいんじゃないかな、そんなことを思った。私は彼のカメラの先生のようなスタンスが好きだなとは思うけど、彼のような器用さを、眩しく思う。

 

自分が本当に好きなことをしよう、そうでないとこれからの時代使い物にならない、なんて意見が闊歩してるけれど、私は誰も彼もが好きなことにこだわり、居場所を探す必要はないように思う。

居場所の中で求められていることをこなすというのも、それはそれで楽しいし、世の中にとても役に立つ能力のひとつ。AIがある世の中になったところで、彼らはその時々に応じて必要なことをやる。だからなんの心配をすることもない。

 

ちなみに私は、というと、自分の居場所を頑なに探しているようで、実は居場所に適応してみるのも嫌いじゃない。かなりどっちつかずで生きている。もっと軸足がしっかりした方がいいのにと思う一方、どっちの生き方のよさも分かって、得してると思うことにする。