makicoo thinks

世の中に対して思うことはここに。

死者につながる生者のマキ。

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 今日は母と弟と「大井バプテスト教会」に行った。年に1度行われる「召天者記念礼拝」に参加するのが目的だ。以前から何度も声をかけられていたもののずっと面倒で断っていて、実際に行くのは今回が初めて。

 クリスチャンホームに生まれ、高校までは毎週日曜は礼拝に参加させられていた。大学を機に東京に住むようになってからは縁遠くなり、クリスマスやイースター、そして実家に帰った時など、年に数回行く程度。今日も明け方まで原稿と格闘していたせいでかなり眠く、ドタキャンしようかと脳裏によぎったくらい。

 

 今回、いつもの礼拝と違ったのは、礼拝の前に手渡された冊子の存在。そこにはずらずらと300人を超す死者の名前が記されていた。一番古い人で1915年、新しい人で2015年。全て「大井バプテスト教会」に通っていたか、その人に縁のある故人のリストだ。書いてあるのは名前、死んだ日、教会の信徒との関係性のみ。いつ生まれたか、何故死んだかよく分からない死者のリストというのは、とても珍しいなと思った。

 礼拝は淡々と進んで行き、そして「召天者への献花」というプログラムになった。まさかとは思ったが、司会者はリストの1番最初の名前を読み上げた。これから300人分の名前を読み上げていく形で、儀式は進むらしい。そして名前を読み上げられるたびに、会堂に座ったその人に縁のある人が起立して前に行き、花を祭壇の前に供える流れだった。

 そして、リストの名前が読み上げられるたびに、誰かが立った。1人だったり複数人だったり若かったり年老いていたり、そのバリエーションは様々で、そして皆神妙な面持ちをしていた。そこではじめて、ここにいる全員が誰かの遺族なのかとはっとした。たとえ1915年に死んだ人であってもこの2016年に遺族がいる。わざわざ教会に足を運んで花を捧げるほど、その死者は生者と繋がっていた。

 死んだ祖父とその父と、若くして死んだ母の妹の名前が読み上げられた時、母にうながされて私は立った。生前かわいがってもらった祖父はともかく、名前すら知らなかった曽祖父と、そして会ったことがない母の妹の死を意識したのは今日が初めてだった。そして顔も知らない曽祖父と母の妹に対してまで、私はなんだかとてもおごそかな気持ちになった。

 

 礼拝が終わった後、母の友人を交えてお寿司を食べた。
 話は高齢者ドライバーが人をはねまくっている話になり、既に免許を返上したという母の友人が「絶対に返した方がいいと思うよ」と母に言った。

 

 「タダシさんとこの道通ったなと思うとぐっときちゃって、そんな時誰かが横切っても分からないと思ったのよ」

 

 タダシさんは母の友人の夫で、結構前に亡くなった。ただそれでも運転していて不意にぐっときちゃうくらい、タダシさんの存在は、母の友人にとって大きい。そしてそれはもしかしたら、生きているよりもずいぶんと重みがあることなのかもしれない。きっと母の友人は、タダシさんが生きている時、少なくとも車で走りながら、ぐっとはきていなかったのだろうから。

 

 家に戻る電車の中で私が考えていたのは、案外物理的な死に、意味はないのかもしれないということだった。死者と生者は、どうやら深く繋がっている、そう思う。