makicoo thinks

世の中に対して思うことはここに。

「ザ・ノンフィクション」/「頑張らない」を頑張る人生のマキ。

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この記事がきっかけで、

keizokuramoto.blogspot.jp

phaさんと小林銅蟲さんが出ている「ザ・ノンフィクション」をみた。

後半は泣きっぱなしでみてた。「頑張らない」というのも、それはそれで大変だよな、ということを、番組を通して感じた。そして「頑張らない」を頑張っていた銅蟲さんに、支える人ができて、そして同じ「頑張らない」でも、本人的によい方向に向かって、そして今度は銅蟲さんが、phaさんよろしく、支える側にまわりはじめたことに、すごく心をもってかれた。
「頑張らない」を貫くのも、それはそれでしんどいことだ。この世の中は「頑張らない」を頑張る人には、居心地が悪い。

 

「頑張らない」を頑張る、というのがピンとこない人は、「頑張りたくない」を頑張ってきた人なのだと思う。本当はもっと寝ていたいけど起きる。認めるのは嫌だけれど、自分が悪かったと謝る。「世の中」てそういうのものだと思えると、「頑張りたくない」を頑張ることが、苦もなくできる。

 

だけど、そんな「世の中」に疑問を感じる人もいる。
朝起きなかったら遅刻し、自分の評価が下がる。だけど、起きない。
悪かった、そう一言いえば丸く収まる。だけど、言わない。

私は長年朝起きるのが苦手な遅刻魔だったから、この気持ちが少しわかる。いずれにせよ、頑張らなくちゃいけないのだ。だから「起きる」を頑張らずに「怒られるストレス」を頑張った。

 

phaさんのギークハウスは、そんな生きづらさを抱えている人の安全地帯だと思った。「頑張らない」を頑張る人同士でコミュニティをつくれば、「頑張らない」が当たり前になる。「頑張りたくない」を頑張る人達に揉まれて消耗した精神が、ギークハウスによって、癒されている。私はそんな風に思った。
 

「ダイバーシティ」という言葉がある。「多様性を認める社会」という使われ方をする。ただそれは、頑張り方が違う同士が何とかうまくやっていく、じゃなくてもいい。
「頑張らない」同士で共生して、そして今回の銅蟲さんの奥さんのようなコミュニティをまたぐ人が現れて、時には融合するのも、それはそれで、ダイバーシティ。そしてその方が双方にとって、生きやすいのかもしれないなと思った。


phaさん、銅蟲さんのやられてることは本当に意義があると思った。そして「頑張らない」を頑張る人生がもっと「世の中」に受け入れられ、時には「頑張らない」を誰もが選択できる、そんな「世の中」であって欲しい。そう思う。